延命処置をしなかったことに後悔なし

先月、母を看取った。急性循環不全で享年84歳。

数年前からアルツハイマー認知症にかかり、半年前から病院で入院していた。

入院までの数年間、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)にお世話になっていた。

白内障緑内障でほとんど目が見えなくなり、転倒して頭を打ち硬膜下血種になるなどして、食事も普通に取れなくなってきたため入院となった。

入院当初は看護師さんに怒ったり、お見舞いにいくと憎まれ口をたたいたりもしていた。

食事は配膳されたものを食べていたが、それも少しずつ喉を通らなくなってきたため、点滴をすることになった。

いわゆる抹消点滴というやつで、これも延命処置の一歩といえばそうなのかもしれない。

しかし、これ以上の延命処置はしない旨を主治医にお願いした。具体的には、中心静脈注入や鼻チューブ、胃ろうなどである。

抹消点滴に比べると高カロリーの栄養を注入できるが、感染症になったり逆流性誤嚥性肺炎になったりなど苦しむことはあれ、いいことは何もない。

胃ろうは元々、子供が使用することを想定して開発された処置であるものを、いつの間にか終末期医療にも使われるようになった経緯がある。

QOLが回復する見込みがあるならまだしも、それが見込めないなら実施すべきではない。

食物を自分で食べる力がなくなっていくことは、生命力が落ちているということであり、衰弱して命を終えるというのが自然の摂理である。

自然の流れに逆らい、人工的・強制的に栄養を注入して心臓の鼓動は継続できても、生命力が回復することはない。

このような考え方は、欧米先進国では一般的な考え方になっている。

英国や北欧のように医療費が無料の国では、一人一人の医療費が膨れ上がると国全体の社会保障システムが崩壊するというリスクを背負っている。

一方、米国のように医療費負担が極端に高い国では個々人が負担できる医療費の限界というものがある。

日本の場合、医療は非常に低負担で受けることができるため、医療費抑制という考えに至りにくいというのもある。

日本の医療費の6割は65歳以上の高齢者にかかっており年々増加している。

医療費抑制という観点でも終末期の延命処置に対する考え方を見直す時ではないだろうか。

母の場合、半年前の入院当初は、食事+抹消点滴だったのが、だんだん食べる量が減り、低栄養状態で体重も30kg位までになった。

抹消点滴だけでは代謝に必要なカロリーを賄え切れない状態になり、点滴もうつ場所がだんだん少なくなってきた。

その段階で主治医から延命治療に関する再確認もあった。

入院した病院は急性期病院であったため、原則3か月たったら転院しなければならなかった。

そのため転院可能な慢性期病院を探すなど準備をし待ち状態だった。

転院先の病院から空きがでた旨連絡が入ったものの、主治医の判断で転院する体力がないし、行く先も短いからということで転院中止となった。

そうこうするうち、低栄養から血中酸素濃度が低くなりはじめたのが亡くなる2週間位前のことである。

話かけると手足を少し動かすことはあれど、意識はほとんどなく苦しむことなく生を終えた。

延命治療をしていれば、あと半年か1年は生きながらえたかもしれない。でも、そのような生にどんな意味があるのだろうか。

延命治療をしなかったことに何も悔いもない。

母のリビングウイルは無かったが、私が母の立場ならそう選択したであろうし、自分に対してもこの先のリビングウィルとして、延命処置は望まない。

 

※上記はあくまで経験に基づく個人的な見解にすぎません。記載内容の正当性は各自でご確認願います。